あー、あと10年遅く生まれてたら
今と全然ちがう生き方してたよなー、と思う。
コンピューターのプログラムなんかに詳しくて
時流に乗った仕事をバリバリこなして
高給取りになれたカモしれないのに・・・(カモ・・・カモ・・・カモ・・・・)
タイミングってあるから、いつの時代でも
手に入れられるモノもあれば、つかみ損なうモノもある。
今の小学生が"あたりまえ"として得るモノは
わたしが必死になってつかもうとしても、早足で走り過ぎて行くだろう。
もし、10年遅く生まれていたら得られなかったモノは?
わたしは、ギリギリ昭和30年代前半滑り込みセーフで生まれたことを
幸運に思っている。
大阪万博以前の暮らしの空気について、
小さな子どもの視点での記憶のいくつかを鮮明に持っているからだ。
4歳年下の妹になると、幼すぎてほとんど覚えていないという。
あのころ、
10円握り締めて通った駄菓子屋は、
極彩印刷の紙製品であふれ返り、魔法じみた空気で満ちていた。
ツルペカのプラスチック製品がどんどんと侵蝕してくる前のことだ。
関西では「当てモン屋」と呼ぶだけあって、
10円玉でもう1つチョコレートを獲得できるかどうか、スリリングな
ギャンブルに興じるウス汚れたガキどもで、いつも賑わっていた。
"なつかし"の有名ドコロでは、「ロバのパン屋」もちゃんと脳メモリーに
映像ファイル付きで保存されてる。
蒸しパンの甘い香りは、ロバ(ウマ?)のケモノ臭と混ぜんとなりながら
鮮烈な記憶として残っているのだ。
今なら衛生上モンダイ有りとして、販売停止されそう。
児童公園で夏の夜に催される、東映まんが映画の上映会。
「白蛇伝」も「ホルスの冒険」(←宮崎駿の初モノやで)もあの公園の中央で、
丸太に結わい付けられたスクリーンでワクワクしながら観ていた。
町内の子どもの軍隊(!)で、となり町の子どもの軍と戦闘を交えたりもした。
石をなげたり、どつき合ったり、時々それでケガもして、
ウス汚れてる上にキズだらけの悪たれだったわたし達。
日本のみんなが貧しかったからこそ、
毎日のあたりまえのコトが鮮明で豊かだった。
そういう過渡期のニオイにどっぷり浸かって育ったことは、
どんなテクノロジーの恩恵を受けるよりもラッキーであったと信じている。
Joeにこういう昔ばなしをすると、とてもうらやましがられる。
イギリスに「当てモン屋」はなかったから、
冒険カードのオマケ付きのガムを
ガチャガチャ・マシーンで買うのがせいぜいだった、ってさ。